閔丙※[※は大の左右に百]
 
1858年12月11日に生まれる。
本籍は忠清南道懐徳郡沙塢里[1]、本貫は驪興。老論派に属する。
1879年2月に文科日次に及第し、1880年4月に芸文館検閲となり、累進して1881年5月に奎章閣直閣、1882年5月に承政院副承旨、同年10月に弘文館副提学、1884年9月に成均館大司成、同年10月に承政院都承旨、1885年2月に閔泳翊内閣の戸曹参判、同年6月に協弁内務府事、同年8月に吏曹参判、1889年3月に育英公院弁理、1896年2月に宮内府特進官勅任官三等、同年7月に経筵院侍講、侍従院卿、1897年7月に議政府参賛勅任官二等、1898年8月に議政府賛政勅任官一等、同年10月に農商工部大臣兼宮内府大臣、同年12月に陸軍副将および軍部大臣、1899年4月に学部大臣兼全権公使、1900年4月に鉄道院総裁、同年9月に元帥府検査局総長、同年10月に度支部大臣、1901年10月に表勲院副総裁、1902年2月に鉄道院総裁、1904年9月に議政府賛政、1905年1月に表勲院総裁となる。
その後、1911年2月から1919年10月まで李王職長官を務め、1925年7月に中枢院顧問となる。
署理大臣に9回、大臣に11回、侍従院卿兼内大臣および宮内府大臣の親任を得ること3回に及んだ。
韓国併合とともに朝鮮貴族に叙せられて同年10月7日に子爵となり、12万円の恩賜公債を受ける。
朝鮮での住所は京城府慶雲洞89。電話番号は光57・267。


[1]有馬純吉『昭和六年版 朝鮮紳士録』(朝鮮紳士録刊行会、1931年)には、185812月に京城府慶雲洞89で生まれるとある。
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