閔泳綺
 
 1858年8月1日に生まれる。本籍は京城府桂洞133。1897年に中枢院議官に任じられ、次いで京畿道観察使・黄海道観察使・陸軍副将軍部大臣・度支部大臣・議政賛政・農商工部大臣・平南平北全南の各道観察使・法部大臣・中枢院顧問を歴任。1908年12月には東洋拓殖株式会社副総裁となる。
日露戦争後には目賀田種太郎の議を入れて、貨幣制度の改革や中央銀行制度の創設などに尽力した。韓国併合とともに朝鮮貴族に叙せられて同年10月7日に男爵となり、2万5,000円の恩賜公債を受ける。翌1911年3月に中枢院顧問に任ぜられる。
李載克が李王職長官を辞める際に次の長官として李允用・李址鎔の名前があがったが「人格閲歴と一党一派に偏せず比較的中止〔ママ〕の立場にあるもの[1]として閔泳綺が推されたという。)



[1]権藤四郎介『李王宮秘史』257頁。

 

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